”小学校5年生の頃から高校を卒業するまでの間、ずっと義理の父親に性的虐待を受けていたんだ”
Aくんのその言葉から長い沈黙が続いた。
何かのテレビ番組等では聞いた事のある類の話ではあったが、実際にそれを経験した人を目の前にするのは初めてだった。
自分がその話を聞いた時にどんな顔をしていたのかは分からない。
Aくん:驚いた?
Aくんからその沈黙は破られた。
未来 :えっ?・・・うん・・・
Aくん:そうだよね・・・汚らしいよね、僕・・・
未来 :そんな事ないよ、だってどうする事も出来なかったんでしょ?
Aくん:そうだね・・・
未来 :じゃあAくんは汚らわしくなんてないよ
Aくんは黙っていた。
さっきまでの手の震えはおさまっているようだったが、虚ろな目をしてワイングラスの中のワインをゆっくりまわしながら、何か遠い記憶を見ている様な感じだった。
そして、またゆっくりAくんは話し始めた。
Aくん:こんな事、誰にも言えないよね。だから、未来が話を聞いてくれるって言ってくれた時は嬉しかったんだ。
未来 :ごめんね、そんなに大変な話だなんて知らなかったから、辛い事思い出させちゃったね・・・
Aくん:そうじゃないよ、僕が未来に聞いてほしかったんだ、未来だったら・・・分かってくれるんじゃないかって・・・
その時ハッと思った。
僕が失恋で悲しみのどん底にいる時と同じ様に、そこから助けてもらいたいと言う期待を彼も僕に抱いているのではと思った。
でも、自分の人生の中でも初めて聞く信じられない話。
他の友人から色々な相談を受けた事はあるが、この手の話はいままでに一度もない。
どんな顔をして、どんな話をして彼と接すれば良いのか検討もつかなかった。
でも、彼は自分に助けを求めている、そんな気がした。
Aくん:ごめんねこんな話して、ビックリしたよね。
作り笑いをしながらAくんはまたワイングラスを手に取り、ワインを一気に飲み干し、ワインボトルに入った最後のワインを均等にそれぞれのグラスに注ぎ入れた。
そしてまた沈黙の時が流れる。
僕はグラスに注がれたワインを一口のみ、彼にどう言う言葉をかければ良いか必至で考えた。
未来 :Aくんは、何故その話を僕にしたの?
Aくん:さっきも言った通り、未来だったら僕の事を分かってくれるんじゃないかって思ったから。
未来 :分かってあげたいけど、僕にはそのAくんの辛い過去にどう接してあげれば良いか分からない・・・
正直に答えた。
彼が自分の過去をどう考えているのか分からなかったが、彼の過去を僕が変えてあげられるわけじゃない。
どうすればいいのか、Aくんが僕に何を求めているのか、何をしたら彼の求める期待に応えてあげられるのか、ただそれが知りたかった。
そして、Aくんは少し微笑みながら言った。
Aくん:未来に僕のすべてを話したいんだ、それを聞いてくれるだけで僕は嬉しいし、救われる気がする。
未来 :・・・うん、わかった。僕でよければ。
Aくん:場所変えようか?
そう言うとAくんは近くの服掛けに掛けてあった自分のジャケットを取り、バックを持って店の入り口に歩いて行った。
自分も慌てて準備をしてAくんのそばに行くと、Aくんはすでにクレジットカードでお会計を済ませ、サインをしていた。
僕も払うよとAくんに伝えたが、Aくんは左手の人差し指を立てて僕に横顔で微笑んだ。
店の外に出て分かったが、僕はかなり酔っていた、ワインボトル2本もあければ当然かと思った。
そして、先に歩いて行ったAくんに少しふらつく足で後ろからついて行った。
ここにくるまでは隣同士で話しながら歩いてきたのに、今度はAくんは僕の前を歩いて一言も話さなかった。
そんなAくんに、僕も黙ってついて行った。
しばらく行くと路地裏に入り、数十メートルいった所に一人しか通れないくらいの幅の地下に通じる階段の前についた。
Aくんは何も言わずその階段をおりて行き、僕もその後に続いた。
階段を下りきった所に扉があり、それを開けるとそこはバーだった。
入り口は狭かったが店内は広く、カウンターとテーブル席があった。
Aくんが少し店内を見渡し、カウンター席の中にいる一人の人に笑顔で胸の辺りで手を振った。
その人がAくんに気付くとすぐにカウンターから出てきて、僕たちを店の奥のテーブル席に通してくれた。
席に座ると、Aくんはマティーニを頼み、僕も同じ物を頼んだ。
店内はさっきのレストランとは違い、真っ暗な店内を所々にある間接照明が照らし、ジャズ音楽がその雰囲気をさらに大人な空間として演出していた。
店内にはカウンターにカップルらしき人たちが一組いるだけで、他には店員以外は誰もいなかった。
しばらくすると、注文したマティーニと小皿に盛られたナッツが運ばれてきた。
ほんのりレモンのような香りのするマティーニは、間接照明で美しく輝いていた。
Aくんと乾杯した後にAくんがいった。
Aくん:ここも僕のお気に入りのバーなんだ。何かあった時とか一人でいたい時にたまに来る秘密の場所なんだ。
未来 :Aくんって素敵な店を沢山しってるんだね。
Aくん:そんな事ないよ、いく所がきまっているだけ。
Aくんは少し微笑んで、マティーニを少し飲んだ。
カクテルを飲む姿も優美で、その姿に少し見とれた。
そして、僕もそれを真似てマティーニを少し飲んだ。
Aくん:ねえ、さっきの話だけど
すこし言いづらそうに話をし始めた。
僕はAくんの気持ちを察して先に言葉を発した。
未来 :うん。もう僕はAくんの為に何か出来る事をするって決めたから、Aくんのすべてを僕に教えて。
酔いもまわっているせいか、さっきより気持ちは落ち着いていた。
Aくんも少し安心した様な顔で笑顔を向けた。
Aくん:わかった、僕のすべてを未来に話すね。
未来 :うん
Aくん:でも、後悔しない?
”後悔”の意味がその時は分からなかったが、僕は迷わず首を縦にふった。
Aくんは少し微笑んだ様な、何かを得た様な笑みを浮かべてカクテルに手を伸ばし、それを口に囲んだ。
そしてこれが、これから始まる事の最初の入り口だったと言う頃を、僕はまだ知らなかった。
つづく
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